Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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六本木0


以下は、後にリライトして「カンブリア革命」2013 の一節として収録した。

(………)
それは、始まりも終わりも無い旅から切り取られた断片だった。
そんな旅の切れ端には、しばしば新鮮な贈り物が転がっているものだ。
その贈り物とは、「日本人だ」という極く低い調子の囁きと、それに伴う「日本人であること」への特異な眼差しだった。
私にとって、そんな出逢いの経験が最も強く印象付けられたのは、カフカがその生涯の殆どを過ごしたあのプラハだった。
過去の様々な建築様式が重なり合って残存し、持続する民族の伝統が記憶の奥深く封じ込められている奇跡の街。
彼方からの多様なアジアの波が深く穿たれた情念となって豊かに流れ込むモスクワとは違って、「ヨーロッパ」という生きた観念が今再び力強く横溢し始めたとしても何の不思議も無い街……。
1990年2月の半ばに、このプラハで私に次の様な問いかけが生まれた。私はその問いかけの最初の素描を、*月**日の夜、私が友人と二人で滞在していたプラハ郊外フチコバ地区の工科大学教授宅のアパートの寝室で書き留めた。今思えば、この問いかけは、あのカフカの『城』と深く反響し合っていたのだ……。
――私はささやかな問題に促されてここへやって来た。
カフカは不眠症で死ぬ思いをしたらしいが、何故か其処だけはどうしてもスペアが利かない私の体内の神経細胞の極く一部が、もう永いこと不眠症に罹かってしまっている。
ところで、極くささやかな旅であっても、旅の最中で「問題を移動させること」は「民主主義」と呼ばれるものにとって取り分け大切なことだろう。
そこで試みにこう問いかけてみよう。
この実験的な問いかけの作業が、我々によってこれ迄「民主主義」と呼ばれてきたものとどう関わるのかは、それ自体一つの問題となる筈だ。
問いかけ:―――民主主義と、「自己の支配を誰かが、或いは何かが代理(同時に表象)すること」とはどう異なるのか?
ここで、試みにあの懐かしの「国家哲学」を振り返ってみよう。
確かにそれは超年代物とはいえ、今や「国民国家」は過去のものになった等と語っている幸せな、しかし驚くべき危険に晒されている人々のことは忘れておこう……。
さて、我々によって「国家」と呼ばれるものは常に、我々全てが規則化/コントロ─ルの装置に連結することを要求する。
この装置においては、或る特異な自己形成プロセスの恒常的な再生産が目指される。
即ち、この装置は、それがその都度出逢う自己組織化因子が常に「自己の支配を誰かが、或いは何かが代理すること」を是認しつつ自己形成する様に訓練する。
それは、こうしたプロセスに応じて規則化/コントロ─ルされない一切の生存の表現・実践を挫折させることを目指すのである。
「国家」とは、恒常的な連続性を目指すこうした規則化/コントロ─ルの装置において、自己の支配を代理される全ての自己組織化因子が、常に同時に代理する誰かでもあるということの根拠である。
つまり、自分で自分を支配することを代理される私は、改めてその代理された自分自身の支配を請け負う「我々=国民」であるということだ。
一方、生存の表現・実践は、その本性上自由を目指す。
例えば、それは規則化/コントロ─ルの装置による捕獲や矯正を嫌い、あくまでもそれらに抵抗する。
逆に自由は、その本性上生存の表現・実践として現実化する。
そしてこの生存の表現・実践は、どんな「同じもの=Xであること」という仕組みにも還元され得ない……。
さて、何らかの自己組織化因子が規則化/コントロ─ルの装置によって「同じもの=Xであること」という仕組みに連結されるプロセスは、この自己組織化因子、即ち「我々=X」によって「国家プロセス」と呼ばれ得る。……ところで、「同じもの=Xであること」という仕組みと連結された自己組織化因子として自己形成・訓練プロセスの内にある〈X=日本人であること〉、〈X=ユダヤ人であること〉、〈X=ピュ─リタンであること〉、〈X=白人であること〉、〈X=黒人であること〉、〈X=アラブであること〉、〈X=アイヌであること〉、〈X=****人であること〉、〈X=ムスリムであること〉、〈X=女であること〉、〈X=男であること〉、〈X=レズビアンであること〉、〈X=ゲイであること〉、〈X=トランス・セクシュアルであること〉、〈X=ヒトであること〉、〈X=狂人であること〉、更には〈X=***族であること〉等々は、互いに異なりながらも相互に作用し合う様々な生存の表現・実践として生成する。――即ち、闘争、戦争、補食・同化、補食・異化、感染、寄生、共棲、癒着、対消滅その他。だからといって、これらの生存の表現・実践が「同じもの=Xであること」という仕組みに還元されてしまう訳ではない。これらは各々力、方向、速度を持ったプロセスとしてその都度生成する。そして、これら生存の表現・実践の各々は、殆ど無限に多様なその都度の生成プロセスを内包し、それらを束ね、訓練している。さて、このその都度の生成プロセスに先立っては、最早どんな「同じもの=Xであること」という仕組みも想定出来ない筈である。だが、規則化/コントロ─ルの装置は、その都度多様な生成プロセスを内包している生存の表現・実践を、本来存在しない筈の「その都度の生成プロセスに先立つレベル」によって代理してしまうのである。即ち、「私=我々=ゼロ」という仕組みの誕生である。あらゆる生存の表現・実践が、この仕組みによってゼロ或いは不在化していく。例えば、自分以外の者によって代理・代表された戦いの代理・肩代わりを引き受けることは、どんな生存の表現・実践にとっても余計であり、不利益なものである。「国家プロセス」とは、あらゆる生存の表現・実践が自己形成・訓練を代理された上で、改めてその代理された自分自身の支配を請け負うことを可能にするものなのである。あらゆるプロセスが「国家プロセス」となり得る。それは、あらゆる生存の表現・実践を自己分裂へと駆り立てる。しかもその自己分裂を、無際限の代理プロセスにおいて引き延ばしながら陰蔽していく。従って、もし仮に「民主主義」と呼ばれるものが、あらゆる生存の表現・実践に開かれたものとして生成するのならば、それはより基礎的だとされる観念、例えば、特定の利害関係者にとって都合のいい仮説に基づく「共同体」に従属する二次的な政治システムではあり得ない。それはそもそも「政治システム」などといった不可解なものでは無い筈だ。仮にここで「理念」が表現されているのだとしても、この「理念」は、その都度の生存の表現・実践として「支配を誰かが、或いは何かが代理すること」という装置にその都度抵抗する限りでのみ、その生命と創造の力を実現していくのだ……。永い不在の時の流れを経た後で、今ここを超えて、私は再びあの端緒の問い掛けと出逢う。それは、始まりも終わりもない旅から切り取られたささやかな断片として、我々の没落と共に生成する来るべき者たちへの呼び掛けとして、ひどく鮮やかな姿を現したのだ。カフカの『城』をも飲み込む超管理回路の直ぐ傍らに、来るべき者たち、或いは民衆の影が延びる。


*note:「最初の素描」は英文だが、書かれて直ぐに当時のライプチヒの社会民主党のポストに直接投函された。


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